結婚雑誌『希望』を発行した美平晴道

 『問題と小説』は新星出版発行で、「日本で最初の愉しいニユース雑誌」を謳ふ。昭和23年8月号は1巻2号。「女性雑誌経営者の成功競争」といふ記事は無署名だが、『スタイル』の宇野千代、『ひまわり』の中原淳一など3人に焦点を当てたもの。この両名は著名だが、3人目が今では忘れられてゐる美平晴道。結婚雑誌『希望』を発行して成功した。
 「男女交際欄」といふ広告欄を設け、求縁者の広告がずらりと並んだ。多摩川で開催した「集団見合い」はマスコミにも大きく取り上げられた。

 この凄腕の紳士、美平晴道と名乗つているが、本名は三平伊之助といつて秋田市生れ、早稲田の夜学に通つていたというのは事実らしいが、十九のとき著作を出したとか、欧米を遍歴して著名の士に会つたとか、帰朝するときは金銀宝物類を携えて来たとかいう話は甚だ眉唾ものである。

 初めは海外渡航者向けの「海外青年会」「海洋青少年協会」などを組織、海軍筋の援助を受けて雑誌『海洋少年』を発行。「なるほど、この彼ならいかにも『希望』はやりそうな次の番といつた感じがしよう」。顔写真で見ても口髭を生やし精悍な顔をしてゐる。現在の夫人は13人目だとか。
 『希望』は7、8000部から始まり現在は10万から12万発行といふ。記者は広告料や入会金、雑誌の売り上げを計算し、毎月150万円は儲けがあるはづと弾き出す。「要するに頭のよい者には敵わないという実例である」。
 結婚紹介所ではないので、成婚の謝礼金は必要ない。女性の斡旋をするいかがはしいところでもない。外で行ふのも集団見合いではなくて「誌友大会」。小見出しにも「抜け目ない頭のよさ」とある。

 その点は、絶対に治療を直接はせず、本をよめ、本をよめと、専ら本を売りつけていた「生長の家」の谷口雅春のやり方と似ているところなどニクイものである。

 記者はまとめとして、雑誌経営者の成功とはどれだけ社会の幸福に寄与したかに懸かってゐるかにあるとする。その点、『スタイル』も『ひまわり』も「戦後の女性の本当の問題に殆ど取り組んでいないと云つていい」。

 これに比べると「希望」は、ともかく結婚難という生々しい現実の上に乗りかつているだけに、その着眼点は三つの雑誌の上で一番軍配があがるであろう。しかし着眼点が正しいということと、実際の経営者なり、事業なり、雑誌なりが果して正しいかということは全く別の問題である。

 のちの明治天皇御尊像建立事業も、着眼点といふ点では抜きんでてゐる。「しかし着眼点が正しいということと、実際の経営者なり、事業なり、雑誌なりが果して正しいかということは全く別の問題である」。