生いもかじった河合徳三郎

 『新潟評論』は新潟評論社発行。発行者は玉井理勝。1巻4号は昭和2年8月発行。この号に河合徳三郎の紹介記事が載ってゐる。河合の各種救済事業により新潟県民が助かってゐて、玉井はその「仁侠友愛」に感動したとある。大和民労会には触れられてゐるが、映画のことは出てこない。各種の記述と違ってゐたり載ってゐない情報もあり、貴重で面白い。 
 記事は救済事業に焦点を当ててゐて、日暮里の生徳病院に加え、前年12月に救済所(救護所とも)を設置した、とある。毎朝6時から8時にかけて、2合の弁当に漬物か梅干を添へて、一日500人分(直話では200人分)を困窮者に配付してゐる。
 ほかにも融資か貸し付けか、10円ぐらゐなら相談に応じるとある。
 直話によれば河合は原籍岐阜県だが本人は名古屋生まれ。13歳で軍人にならうと中山道から上京しようとしたが、病気になって途中で土方となった。群馬県では荷車を盗んだと勘違いされて打ちたたかれ、空腹に耐えかねて生のジャガイモをかじったりした。宇都宮で野宿したときは神社のお供へ物を失敬するなど困窮。

空腹を感じた場合は何として名状する事の出来ぬ、心細さでありまして、何故に私一人が斯る不幸な運命にあるかと、青空を眺めて人生感を抱かづには居られなかつたのでありました。

 そんなときに、通りがかったお百姓から蒸した薩摩芋をもらったのがきっかけで、「一人前となつた時には幾分なりとも、人の困難を救済したいと考へたのであります」と綴る。救済所は「少年時代からの宿願」ともあり、思ひいれのほどが窺へる。
 明治8年9月13日生まれの数へ53歳。土建業で東京府庁や官庁の仕事も引き受け、信用が厚いといふ。
 息子の覚太郎は開成中学4年生の18歳。日蓮宗の熱心な信仰家で、毎朝お題目を唱へる。まだ若いのに何がさうさせたのだらう。「河合氏の侠気と、覚太郎君の慈善心とが相寄つて、清い結晶を結んだ時、そこに生れたのが、救済所設立の事業である」。

 発行所の新潟評論社の母体が新潟青年協会で、巻末に特別賛助員芳名がある。河合のことを玉井に紹介した同業者、五十嵐惣一は五十嵐組経営者。出版者で貴族院議員の大橋新太郎、ライオンの小林富次郎、政治家の山本悌二郎らの名もある。神保町の古書店主には新潟出身者も多かったから、河合の世話になった人もゐたかもしれない。