堤康次郎邸で三船久蔵に柔道をさせた宇田国栄

 『政界五十年思い出の人々』は宇田国栄著、新政研究会発行、中央公論事業出版製作、丸ノ内出版発売。昭和54年6月20日初版で、7月18日再版。
 函・本体とも表紙・背に著者名なし。奥付の略歴には年月の表記がないので、この本だけでは著者の生年もわからない。体裁はあんまりだが、中身は著者の政界・財界交友録で、その人物が癖のある人ばかりで面白い。序文で岸信介は「政界では情報通として顔の広いことは屈指」、船田中も「政界の表裏に精通し、人と人との関係を知悉している」と誉めてゐる。赤尾敏野依秀市も、藤吉男も萩原吉太郎も出てくる。
 宇田は鹿児島出身の政治家で12回出馬したが、当選よりも落選した回数の方が多い。子供の頃から郷土の先輩、床次竹二郎が好きで、小学校の学芸会で床次が載った新聞記事を朗読してゐた。
 床次の次に岸信介の秘書となり、保守新党(自民党のこと)結成、安保条約改定で岸を支へた。宇田の新政研究会は戦前の東亜国政研究会から続く組織で、昭和28年に発会式を挙げた。岸や楢橋渡、三木武吉金森徳次郎らの挨拶がそのまま載ってゐる。
 金森のマスコミ批判の部分を引く。

終戦直後のマス・コミュニケーションの結果として、日本人のやったことはすべて悪かったんだというような気持が流れておるのみならず、あのときの論法というものは、ある一つのことが悪いというと、そのまわりにどんないいことがあってもみんな悪いことになるという、非常に杓子定規的に何でも悪いと言われておりました。ために戦争は悪い、平和は大切だ、と言うのはいいのですが、その結果、どんな目に遇っているか。国が滅びても喜んでいるのだ。われわれは正義を守るためには身を犠牲にしてよろしい。国家といえども滅びてよろしい、こんなことを平気で言うような時代になりました。これもものと時と場合によっては、そのくらいに言って人心に好影響を与えるということはいいのでありますけれども、ほんとうの考え方ではございません。

 安保改定時には、同郷の警視正と鹿児島弁で連絡しデモ隊の情報を探り、岸首相の身を守った。当時の状況を

官邸のデモと並行して渋谷駅のハチ公銅像前に集まったデモ隊は、道玄坂を上って南平台の私邸にデモをかけ、「岸内閣を倒せ」とか、甚だしきは「岸を殺せ」と罵声、雑言を叫び、遂に焼夷弾を投げるなど、全く暴動化した有様であった。

 と記す。
 遡って東條内閣当時、堤康次郎が島津忠重の邸を買取ったことがあった。宇田はそこを有効利用しようと持ちかける。

「…貴台は柔道の猛者でその子弟にも柔道を教えているそうだが、柔道界の覇者三船十段に来てもらって、あの屋敷内に柔道の仮道場を造って、ここで日本の柔道の真髄を披露したら一層有意義と思う。私は柔道の専門家ではないが、柔道は守ることがその要点で決して攻撃的なものではないと思う。大東亜戦争も侵略的でなくて守りの戦いと思っている。そこで三船十段に、相手が刀剣、あるいは銃剣でかかって来た場合、それに対応する新しい柔道の型を編みだしてもらって、柔道によって日本精神の基調を示してもらいたいものだ」

 無事実現したさうだが、柔道の新しい型といふのはさうすぐにできるものであらうか。東條内閣の閣僚や各国大公使、幼少時代の堤清二堤義明も集まったといふ。



































































 ・式場図録、『学鐙』が『学燈』。