山カン横丁のブラック新聞社

 『大日』の昭和11年11月15日号(第139号)を読んでゐたら、「随筆 つめ弾」(湯朝竹山人)といふ興味深い回顧録があった。
 明治の末から大正の初めころまで、第一生命の南あたりの丸の内の中心は雑草茂る武蔵野だった。その辺りにはインチキ会社や商店が立ち並び、山カン横丁と言はれてゐたといふ。

 

某新聞社では、編輯社員を無報酬で仕事をさせて発行を続けてゐたのもある。月末に給料を払はないのだ。月末に社の前へ社員募集の広告を出しておくと幾人とても応募して来る。こんな無法な悪辣に対して、次ぎから次ぎへと泣寝入りの意気地無し青年が、入替り立替り知らぬが仏の馬鹿面で広告に騙されてやつて来るのである。その応募者を一ヵ月只で使用するわけなので、月末毎に社員を替へてさへ行けば報酬など一文も払はずに編輯はやつて行ける。

それといふのが東京には文筆人士が箒で掃き捨てたいほどゴロゴロウロウロしてゐるので、さういつた無職操觚家の卵を一ヶ月宛ロハで使用を続けていくことが雇主では平気で慣用されてゐた。この悪辣慣用は、インチキ新聞社のみならず、市井商家の間にも行はれた。

 この辺の住所の新聞社は要注意といふことであらうか。
 新聞之新聞社も山カン横丁にあり、著者はその創刊号に「若旦那の恋」てふ短編小説を載せた。内容は銀座三丁目の細川洋紙店主人細川芳之助と柳橋若桜家国次との仲を描いたもの。「無論稿料の約束などもあつたがそれは実行されず。只雑誌を一部届けられたのみだつた。山カン横丁から発行される雑誌である。文士に対し原稿に対し無報酬ロハ相場は当然だらうと思つた」。

 「鋏」といふ小説も、京都の日刊宗教新聞の懸賞小説に応募して当選。発表されたが賞金は来なかった。その懸賞小説選者の石丸梅外(梧平)が上京したので会ってみたが、「僕の弟か僕の家の書生程度の色の白い好男子の青年だつたので、双方の初対面の挨拶が一寸ヘンチクリンな変なものであつたことを今も覚えてゐる」。