赤尾敏を転向させた秦真次

『太陽民族の使命』は昭和56年11月23日発行。著者は元木素風こと元木福治で、発行元の日の本教壇の人。ここに赤尾敏の話が詳しく出て来る。
 秦真次は陸軍中佐のころドイツに派遣された。そこでホームシックになったが、太陽のありがたさに深く感動。帰国後に『太陽と国体』を著して徳富蘇峰の題字を貰って、陸軍の菊香会から三万部発行した。これを読んで共鳴したのが元木と赤尾だった。「五十年も前の話ですが、そのまま今でもこの話は生きていると思う。私が死んだ先までもこの話は生きるだろうと思う。」

 

たまたま今の『太陽と国体』を読み、秦さんに会った。会って話を聞くと、秦さんの云うことがなかなか尤もである、と云うようなことで、社会主義から転向と云うわけで、そこで、彼は名古屋の自分の家の庭先で、三日間、懺悔のために念仏をやった。念仏やって、そして東京へ出て皇居前で、「ざんげの式」をやり愛国運動を始めた。そして大正十五年第一回の建国祭で私共と知り合うことになった。彼も八十になりましたが、今も数寄屋橋で、よく街頭演説やってますネ。それも元はと云えば、秦さんの『太陽と国体』等で転向して、建国会を起し、やはり秦さんを顧問にした。私がささやかな日の本教壇を作って、宗教的な行き方をしたのに対して、赤尾君は、政治的な行き方をするというようなことで。秦さんは、若い赤尾君の所と、私の所だけに顧問になったということでした。

 赤尾が転向した理由の一つは、この書にあると見られる。昨日の『日本』にも、

太陽の精神こそ建国の理想であり天照らす大神の御神威であり、天皇の御理想であらせられるのだ。国の名は日の本、元つ神は天照大神、元主は天皇、国民は日子、日女、国旗は日の丸だ。吾等は日本精神の象徴である日の丸の旗を先頭に立ててこの国と世界とを救はんとするものである。

 と、戦後になっても秦の主張が取り入れられてゐる。
 元木の書は講演会の筆録で、主催者は鉄砲洲稲荷神社の中川正光宮司。会後、藤原弘達の発言を紹介してゐる。恐らく細川隆元時事放談かなにかを見たのであらう。

「家の娘に、お前は誰に投票するか、と聞いたら、〝赤尾敏に投票します〟と云った。お前よくぞ云った。今の政治家なんていうものは、全く風の吹くまま、何を考えるか、何をするか判らん奴ばっかりだけれども、赤尾敏だけは戦前戦後を通じて一貫するところのものを持っている唯一の政治家である。偉いものだ」と云って、細川さんと一緒に褒めていました。