万朝報で結跏趺坐をした安藤覚


 『相模聖人と讃えられる宗教政治家 安藤覚伝』は遠藤徳英著、厚木市民情報社発行、昭和48年11月発行。厚木出身の国会議員、安藤覚の伝記。製本は簡易だが、本文292ページで内容は充実。安藤の七回忌に刊行された。子供のときからの各時代の証言や談話が丹念に集められ、読み甲斐がある。序文は河野謙三

 安藤は明治32年生まれ、昭和42年没。父の憲三は曹洞宗住職で法名、大安無我。安藤自身も曹洞宗の住職。いたずら好きな少年時代、日大宗教学科の学生時代を経て、新聞記者を目指す。万朝報の試験を受けるが不合格。そこで安藤は座り込みを決行する。

毛のすり切れたオーバーをキチンと畳んで廊下に敷き、その上に坐り込んだ。それが結跏趺坐の坐禅だった。軍隊生活中でも苦学をしてからも一日も休んだことのない坐禅だった。これなら十時間でも二十時間でも平気である。(略)社内はどこもかしこもこの坐りこみ男の話で持ち切りだった。四日が過ぎて五日目の朝、給仕に呼ばれて応接室に入ると、山田社長と斯波編集長が笑顔で待っていた。

「いや、安藤君、わしの負けだ。完全なわしの負けだ。採用しよう、正式に採用する」 

  正力松太郎の読売新聞に移ると、従軍記事や講演が評判になり、政治部長兼編集局次長にまでなる。通算記者生活が17年になったところで、胎中楠右ヱ門の地盤を継いで神奈川三区から出馬。昭和17年の翼賛選挙で初当選する。三区は河野一郎片山哲らの選挙区。落選することもあり、選挙戦の様子も読みどころ。

 終戦直後、厚木飛行場の台湾工員騒動の収拾に乗り出す。当時、台湾工員が農家を襲ひ食料を持ち出したり電車を無賃乗車するなどして、一帯は無政府状態だった。天下の浪人、高山男也が叩き斬る計画をしてゐたのを安藤が止め、単身台湾工の宿舎に乗り込んだ。食料不足が原因だと分かり、間もなく解決した。

 非常に清廉で、講演をしても謝礼を受け取らなかったり、人知れず人助けをしたりする。「相模聖人」の所以で、戦没者慰霊や日韓条約特別委員長にも力を入れる様子が描かれる。

 しかしその安藤でも、時には選挙違反をしなければならないときがあるのだといふ。かつて記者時代に面会した、梅津勘兵衛の言葉を引いて心情を吐露する。

 

法律に触れることを承知で違反をせにゃならぬこともある。信義に欠けると知りながら友を裏切らねばならぬ場合がある。しかし、その時おれは、梅津勘兵衛親分の言葉じゃないが、いつもびくびくと細心の注意をして、天を畏れ自分の良心に詫びて、謙虚な気持ちでやっているんだ

 

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第一徴兵保険の社員にお礼を言った高木恵三郎


『第一徴兵社報』は第一徴兵保険株式会社発行。昭和9年12月発行号が123号。26ページのうち、16ページが模範契約者の紹介で、赤ん坊や家族の写真であふれてゐる。生まれてすぐに保険の契約をしてゐて、裕福な家庭が多い。

 次に多いのが10月18日に行はれた、靖国神社神門の献納奉告祭、竣成奉祝祭の記事。神門は第一徴兵が献納したものだった。扉には大きな菊の御紋があしらはれてゐる。写真では参道の中央に祭壇を設け、太田社長らが玉串を捧げてゐる。参列者に葦津耕次郎同社相談役の名前はない。賀茂百樹宮司直会の挨拶に

皆さん一寸御覧になりますと他の建物と調和が取れぬ様にお思ひになるかも知れませぬが、当神社は計画を定めて一時に造営せられた神社でなく、本殿は明治五年に、拝殿は同三十四年に建築したるが如く、七十年の間に、その時々に従つて造られたのでありますから、已むを得ぬ事であります。 

 とある。建造物は年代がばらばらなので調和が取れないのは仕方がない、あとで篤志家が出てきれいに造営してくれるのを待つのだと言ってゐる。

 囲み記事の社内ゴシップといふのがいい。

 

 十月廿五日午後二時頃、本社の六階へ一人の熱血漢が訪問して来て「一番偉い人に面会したい」と申出られた。重役不在の為山田庶務課長が面会すると、「此の度靖国神社へ立派な神門を献納された事は誠に感激に堪えない。社員の方に一人一人お礼を述べさせて戴きたい。」と熱心に頼み込んだ。(略)

 此の六階の人々だけにでも礼を言はして貰ひたいと言つて、社員を中央に集め「現今弓削道鏡のやうな資本家ばかりの多い中にあつて、此の会社が靖国神社にあれほど立派な神門を献納されたといふことは非常に感謝に堪えないことであります。(略)」と感涙に咽びながら挨拶をして帰つて行かれた。久留米の人高木恵三郎といふ憂国の士である。                                                                                                             

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中村孝也「内鮮融和は相互の必要である」

続き。中村孝也が国史教育でもう一つ改善したいことは、朝鮮について。

実に我が国史は朝鮮を除外しては正しく理解し得られないのであります。(略)そして学んで得るところのものは、朝鮮は政治的に独立力の弱いところであるといふことである。それは朝鮮の歴史が極めて明白に示してゐる大いなる事実である。その朝鮮は内地と融合し同化することが最も正しく且幸福である。内鮮融和は相互の必要である。 

 日本書紀では神功皇后が朝鮮を攻めたとき戦闘はなく、一人の死傷者もなかった。王子は人質に取られ、工芸品を奉献させられた。皇后側が戦はずして勝った。しかしさういふことは改めて教へるべきではない。

 知らない人々に一千数百年前の所伝を知らせて、新たに内地に対する不快と敵愾心とを挑発することありとせば、教へるは教へざるに若かず、内地の優越感を以て朝鮮に臨むことが教育の本義から見て避くべきことを知り得るでありませう。

 朝鮮の人が不快になるやうなことは、教へない方がよい。文化的な交流とか、神功皇后新羅天日槍命の子孫だとか、内鮮融和に役立つことを重点的に教へるべきだといふ。

 豊臣秀吉朝鮮出兵についても、改善案を示す。

朝鮮出征といふ事件を扱つて、そして内鮮相互の敵対感情を誘発させることなく、却つてこれを利用して、雨降つて地固まるの譬のごとく、内鮮融和の資に供しようといふのだから、一見無理な注文のやうに見えます。併し必ずしも左様でありませぬ。 

 

中村孝也「それは馬のたぐひでありませう」

  『国史教育の改善』は中村孝也、啓明会、昭和11年8月発行。中村が国史についての意見、改善点などを述べる。時々、わかりやすい例へを交へてゐて興味深い。「歴史といふ学問の本質は婦人のやうなものであります」。

 

純然たる学門として成立つことをせずして、而して最も好んで道徳と結婚しようとして居るのです。されば今ふり返つて見たところの日本歴史の著書の大部分は、或は国体の本義を明らかにするために働き、或は、貴族政治を謳歌することと結びつき、或は仏教と一緒になつて見たり、或は武家政治を讃美して見たり、或は尊皇思想の妻となつて自ら小長刀ふるつて、第一線に出ようとしてをります。

 

やっと明治時代に国史が独立するやうになったが、国史についての教育も本も十分ではない。歴史であっても世界歴史の方が授業時間が多い。しかし国史は人を教化するのに絶大な力があるのだといふ。

 7章のうち、2つの章が「敬神教育の必要」「敬神教育の補充」。敬神の念は人生の羅針盤のやうなものだといふ。

 馬の耳に念仏といふ諺はあるけれど、人にして信仰の念がないならば、それは馬のたぐひでありませう。苦しいときの神頼み、いざとなるときには、自分よりも高く貴く強き神仏の御力に信頼するのが即ち人間の人間たる所以であります。

 信仰を持つことは人間にしかできないこと。信仰心がない奴は馬だと批判する。ところが、学校では信仰について教へない。

私共は明治時代に小学校から大学まで学ぶ間に未だ曽て学校から敬神崇仏の教訓を受けたことがなかつた。それは不幸なる我等でありました。私共は学校で神様や仏様を拝まなかつた。 

  敬神教育の具体例では、教材に皇大神宮の一項を加へること、八咫烏神武天皇のもとに偶然飛んできたのではなく、天照大神のご加護によるものと明示すること、などの改善点を挙げる。続く。

新渡戸稲造「陛下は如何なることをお考へになるだらうか」

 『民間の節句 附民間信仰小史』は升味ゑきの著、教育研究会、昭和10年10月増訂再版。序文は下田次郎で、著者が岐阜高等女学校教諭として、また家庭を支へ、その上このやうな研究を成し遂げたことを称賛してゐる。研究の意義も説く。

科学よりも詩が事物のエツセンスを一層適切に表現することがある。それ故、古来の信仰や伝説や年中行事を一概に迷信だとか無意義だとかいつて唾棄すべきではない。その中には、案外に深い真理が籠つて居たり、人間の情意の要求を充たすものがある のである。

  升味は、「吾等がみ祖(おや)達」が現代人よりも優れた面があったことを指摘する。

彼等は神秘に対する感覚に於いて、吾々よりも遥かに勝れた羨むべき能力を持つてゐた。彼等の全生涯は新鮮なる驚嘆! 恰も小児の如き驚嘆と感激で埋められてゐる。 

  大嘗祭の項では、新渡戸稲造の文章を長く引用する。下田・升味・新渡戸に似たものが流れてゐることを思はせる。

そこで陛下は如何なることをお考へになるだらうか、恐れ多いことだが我々は其れを想像して見たい(略)皇統連綿として来つた潜在意識が、この機会に陛下の奥に残つてゐる御記憶が浮び出すであらうことは心理学者ならずとも想像出来ることである。(略)昔はかうであつたから 、この後はかうではないかといふところまで想像出来、そこではじめて、我皇祖皇宗から伝つた我が責任、我が職務は何であるかといふことを十分御自覚になることだらうと思ふ。それが大嘗祭の目的だらうと拝察される。

 新渡戸によれば、陛下は大嘗祭で、ご祖先からの潜在意識を呼び覚まされる。それは天皇としての責務を自覚させる作用を及ぼすのだといふ。

 

・樋口彰彦『江戸前エルフ』読む。困り顔の引きこもりエルフが御祭神。溶け込み具合が絶妙。狛犬にさりげなく羽が生えたりしてゐる。構成をいふと、短い話3つで1つの話になってゐる。それぞれでまとまりがありつつ長いストーリーにもなってゐるのが見事。社殿の内削ぎの千木は耳を模してゐるのだらうか。

 

 

嘉村信太郎「眼鏡は一種のインテリ美を与へて呉れることがあります」

『理容と衛生』は銀座の、美容と衛生社発行。雑誌の名前は理容で、会社の名前は美容。月刊で昭和12年6月号が第10巻第6号。大判20ページ。

 嘉村信太郎医学士が「美容上から見た眼鏡」と題した見開き記事を書いてゐる。

 

眼鏡を掛けるのと掛けないのと、美容上から見てどちらがよいかと申しますと、勿論掛けない方がよいに決まつてゐるのですが、これは眼に欠陥がなく掛ける必要がある場合のこと。掛ける必要がある場合には、掛けないより掛ける方がよいのであります。

 

 視力が悪かったら眼鏡を掛ける。視力が悪くなければ掛ける必要はない。これは当然のこと。美容上はもちろん掛けない方がよい。もちろん、とある。では女性の眼鏡に否定的かといふと違ふ。続きがある。視力が完全でない人が眼鏡をしないと、目つきが悪くなり表情がそこなはれる。少しでも視力に欠陥のある人は、眼鏡をすることが「美容上からも絶対に必要」。

 殊に何等かの職業に従事してゐられる方の場合は、家庭内でボンヤリ坐つてゐられる方とちがつて眼鏡を離すことが出来ないのであります。

 眼鏡は職業婦人に必須のもの。働かない婦人への皮肉が光る。

女性が眼鏡が掛けることへの偏見もあり不自由するだらうが、「さういふ懸念は一切解消してよい」。

むしろ反対に眼鏡は、ともすればぼけ易い、鼻の低い日本婦人の容貌を引き締めて一種のインテリ美を与へて呉れることがあります。 

  嘉村医学士は、少し前には美容上眼鏡をかけない方がもちろんよいと言ってゐたが、あとの方では、日本婦人は眼鏡を掛けることで美しくなるとおっしゃってゐる。

 最後は眼鏡の選び方をレクチャー。これを踏まへたのか、写真の女性は丸眼鏡がよく似合ってゐる。

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山本白鳥「いずれ大きなこだまとなって響いていくに違いない」

 『こだま 記念号』は児玉神社社務所、平成14年7月発行。児玉源太郎の生誕150年を記念したもの。内容は児玉将軍よりも、発行当時在任22年に及んだ山本白鳥宮司の足跡を振り返ったものが貴重。写真は町田敬二・飯塚友一郎両責任役員とのもの、葦津珍彦とのもの、どれも鋭い眼光が印象的。エトキは山本宮司ではなく白鳥宮司になってゐる。

 来歴は白鳥宮司自身が語ってゐる。子供のころから江の島に遊びに来てゐたこと、大学でのボランティア活動、キリスト教との出会ひ、児玉神社宮司就任、荒廃した社殿や境内の復興などを記し、苦難の道のりをうかがはせる。

 誌名のこだまといふのは、「『江ノ島』という名の響きは私の心の中でこだましていた」など、児玉将軍の意味だけではなく、音の響きとしての意味でも使はれてゐる。白鳥宮司の詩の一節にもある。

児玉の社で捧げられた熱い祈りは、

いずれ大きなこだまとなって響いていくに違いない。

 飯塚が宮司紹介の一文を残してゐる。

 白鳥宮司は、常人には稀な霊感に恵まれ、これと経営の天才とを併せて、やがて廿一世紀の神社宗教の新天地が開かれることを、我らは期待する。いささかな試行錯誤や勇み足があっても、我らはむしろ「大過なく相務め」よりも、それを買う。

  白鳥宮司を支援する人たちは「宇史鳥羅(うしとら)」「白鳥の騎士団」を結成。神道講座の受講生たちは「白鳥先生から受けたものは、あまりに大きい」「先生の言霊の響きは、聞くものの魂を揺さぶり」「私にとっては聖なる存在です」など、感動と感謝の言葉をつづってゐる。

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