楠正人「楠族を抹殺せんとする陰謀家が少くありません」

 『菊水』は湊川神社の社報。1・3・5・7・9・11と年6回、奇数月の発行。内容はご祭神の楠木正成のこと、楠木家の系図楠公を慕った人物、楠公を扱った書物、社頭の出来事、人事異動など多岐にわたる。1部12銭。
 昭和十年代のものは5段組みで12〜21頁と分量も多く読み応へがある。昭和14年7月1日発行号は第7巻第4号。16頁建てで編輯兼発行人は中野清。これに同じ大きさの『楠木同族会報』2頁が付録として付く。
 本誌『菊水』には千早丸署名の「楠族の立場より」が載ってゐる。同年11月号の索引によると筆者の千早丸は福岡の楠正人。同族会員なのでもちろん正成の子孫だらう。この記事は全国に散在し混乱する各種の系図を取り上げ、より正確な系図を目指さうといふもの。連載となり、最終回には筆者が作った系図も掲げる。
 初回は総論的に、正成以降の子孫の流れを解説。子孫は大きく硬派と軟派の2つに分けられるといふ。硬派は足利以来の武家政治に反抗し地方に逃れ、姓も変へて暮らした。軟派は武門に迎合し家の復興を図った。軟派・妥協派の代表を楠正虎とし、「自己中心主義」「過失を敢てした」と非難する。

楠族を圧迫した家々の末流には今日なほ楠族を抹殺せんとする陰謀家が少くありません

楠族に告げ度いのは「吾等の荊棘の道はなほ終つては居ない」と云ふことと「吾等は荊棘を刈る決意を要する」と云ふことであります。

 と、危険を冒してでも正しい楠木の系譜を明らかにするのだと意気込んでゐる。
 1年後の15年7月号で連載を終へてゐる。その号の15頁、社頭彙報左上に4巻2号とあるのは8巻4号の誤記。参拝者として四王天延孝、一条実孝、井上清純、頭山翁ら。頭山翁はその場で揮毫したのか、「純忠至誠」の書が掲げられてゐる。
 同族会では、正成が信仰してゐた多聞天を祀る多聞寺の再建について提議した会員があったが、人事や会計に問題があり除名されてゐる。
 


 

女郎屋の主人になった中江三吉

 続き。『向上』主筆の宮田脩は同号に「青楼に近江聖人の後裔を訪ふ」も載せてゐる。蓮沼門三から、近江聖人こと中江藤樹の子孫が女郎屋の主人になったといふ話を聞いた宮田。早速横浜に、その中江三吉を訪ねた。
 電車を下りてからの風景と心の描写が秀逸。

先に立つのは短い袴に処禿のした紋付の木綿羽織を着た修養団員の黒田君、後に続くのは高帽に太い杖を持つた教師の予、而して処は本能を満足させる為めに設けられた場所、一寸妙な感が起つた。而も夫が聖人の遺物を探りに往く巡礼と云ふのだから一層奇妙じやないか。静な町を歩いて居る中に、女郎屋と云ふものはこんなものかと云ふ感も起り、往昔基督教の信徒が異教徒のエルサレムに、主の霊地を訪れた時の感なども想像して見た。

 黒田君といふのは横浜めざまし新聞社主、黒田平久の甥。黒田君を案内係に、廃娼運動もしてゐる宮田主筆が女郎屋を訪ねる。女郎屋には近江聖人の子孫がゐるらしい。をかしいとわかってゐる宮田の筆ぶりがをかしい。
 女郎屋では中江家の系図や古文書を見せてもらへた。そこで判明したのは、中江三吉は藤樹ではなく、その弟の子孫。それでも中江一族には変はりない。ところが明治初年に聖人の遺蹟を勝手に修理されたので提訴したところ、その費用がかさんで家産が傾いた。三吉は13歳で故郷を飛び出した。それから女郎屋になるまでも波瀾万丈だ。

十六の時同姓で且つ先考とは値遇のあつて[た]故中江兆民篤介氏を便つて上京したが、東海道の金谷に来た時既に旅費を使ひ尽し、漸く村役場で貰つた少計の金を路銀に辛く横浜まで着いたのであつた。けれど知人もない土地ではなす便もなくて終に侠客の群に入り、続いて新開の土地に此職業を選んだのださうだ。

 三吉は病気中でも面会に応じてくれて、宮田は好紳士の印象を持ち、考へるところがあった。

精神上の事実に於ては父子必しも相通のものでないことも争へぬ事実と思ふ。況や世を距てゝ数代其血が混入した後は、どうなるものだかわかるものではない。して見ると家系の如きは其人物を評価するに、何等の価値を有するものではなからう。畢竟エライ奴は其一人がエライからエライので、いくら名門の出でも其者に祖先と拮抗する能力がなければ、たゞの馬鹿に過がない。

宮田脩「野依秀市は沙漠のオアシス」

 修養団の機関誌、『向上』。明治45年5月号の第5巻第5号に、横山三義「野依君は果して吾等の学ぶべき人物か」が載ってゐる。目次では「野依氏は果して吾人の学ぶべき人物か」。
 蓮沼門三から「野依は奇狂な点もあるが珍らしい人物である交際して趣味のある人である」と聞き、会ってみた。野依は初対面の女性記者に対しても遠慮がない。

「君はいくつだ、ソーか二十二か少し古狸だねい、…どうだ一体君が僕の妻になる気はないか、僕も年頃の男、しかも元気旺盛と来て居るから、欲も随分強い、君もその若さに新聞記者なぞして居るのを見れば普通人ではあるまい」

 古狸と言ってけなしたすぐあとに若いと言って、年頃で欲もあると求婚し、挙句に女性で新聞記者などしてゐるのは普通ではないとからかふ。
 横山は、このやうに天真爛漫なうへに、しっかり仕事もこなす野依の猛進奮闘努力を見倣へばなんでもできるだらうと読者に奮起を促す。
 同号には野依の新著、『無学の声』の見開き広告もある。この頁を切り取って送れば、定価1円20銭、郵税8銭のところを合計1円に割引するといふ。28銭お得。『向上』が1部10銭なので、だいぶ勉強してゐるのではないか。
 広告といってもほとんどが『向上』の宮田脩主筆の文章でびっしり埋められてゐる。

時に読来つて嫌な気のする部分がないではない。腹の立つ文字にぶつつからなくはない。随つて其所見を異にする点も鮮くはない。然し朝に源氏の心持を窺ひ夕に平氏の顔付を見るオベツカ者流と撰を異にする著者の意気には、中々愛すべき所が多い。

まるで、沙漠にオーシスを見るやうなもので、一理の異現象たる観がある是が戦国の時代なら怪むに足らぬが、制度は箱づめのやうに極まり、秩序は梯子段のやうに定まり、殆ど一寸の裕取を許さない間に、著者の如き猛烈なアヂテーターを見るのは、一つの奇蹟としてよからう。

 型にはまった社会のなかで、野依氏はまるで砂漠のオアシスのやうに貴重な存在だと褒める。そのほか「敵としても愛すべき敵だ」「近頃快心の好著述」ともある。
 良いところは褒め、悪いところは指摘する。文章量の多さも含め、これはもう広告を超えて書評といってよい。
 主筆の宮田は記事でもなかなか読ませるものを物してゐる。少し続く。

山口二矢神社建立を計画した高津大太郎

 「“山口二矢神社”建立計画」といふ記事が『アサヒ芸能』昭和35年11月20日号に載ってゐる。本誌・大歳成行の署名。
 3ページのうち、はじめに山口の眼鏡のない遺影、護国烈士山口二矢国民葬儀実行委員会事務局と治安確立同志会の表札がある事務所の写真。
 神社建立の噂を追ふ内容で、その発信源は治安確立同志会の高津大太郎代表だといふ。スーツにネクタイ姿の高津の写真もある。記事では山口を祀る神社や碑を建ててほしいといふ手紙などを紹介。
 高津は

…日本の歴史を通じてこんな尊いお方はそうなかったと思います。だから現在、全国の少年の中に脈々として山口君を痛苦とするものがでてきています。そういった少年の希望にそうために、わたしとしては神社をつくりたいと思っています。…

 と主張する。これに対し、山口を知る赤尾敏

…山口坊やを神秘化して神として祭ることもやっていい。ただ、いまやるかどうかは深く考える必要がある。

 とし、反共運動など実際運動の方に力を入れるべきだといふ。どちらかといへば賛成といったところ。父の山口晋平は「建ててほしいとも思わなければ、他人が建てるのに絶対いけないとはいわないが…」と困惑の体。
 佐郷屋嘉昭は

…われわれは、いま外部へのPRより、内部で厳しゅくに弔いたい。

 と冷静な対応をよびかける。こちらはどちらかといへば反対といったところ。
 佐郷屋の言葉を勝手に敷衍すれば、神社を建立すれば 宣伝にもなり、多くの人がやってくるだらう、その中には真摯な人も、見物のやうな人もくるだらう。さうなることが本当によいことだらうかといふ意見。故人と向き合ふのは神社よりも個人的にお祀りしたり弔ったりする方がふさはしいといふことだらう。


団地ともおは探書譚。対象が文学書でなく、範囲が本屋にとどまらないのが〇。

正富汪洋「断じて負けてはならない」

 『歌集 やまとたましひ』は岡山出身の詩人・歌人、正富汪洋の著書。昭和19年3月、詩と歌謡の社刊。質素な装丁で著者名は表紙になし、背と奥付のみ。書名は表紙・背・扉がやまとたましひ、奥付のみ、やまとだましひ。
 昭和18年7月付の自序を読むと正富の心持が知られる。皇道による世界国建設を主張し、米国への敵愾心を露はにする。

 米国人は戦勝後は、日本の軍人、政治家、新聞記者等を殺害し、残る総ての男子を強制的に奴隷とし、日本の国土を去らしめ、若き女子はこれを留めて、日本を彼等の享楽地にすると云つてゐるさうだ。これは米国人の性情を最も明白に暴露してゐるものと思ふ。(略)言語に絶する惨忍性を恣にする米人との戦には、何十年何百年戦争が続かうとも勝たねばならない。断じて負けてはならない。

 ガダルカナルの戦闘で、米兵が鬼畜の所業をなしたといふ話を聞き、歌に詠んでゐる。さういふ酷い目に遭はせないためにも、絶対に負けられないのだといふ。 

にくしにくしわが死傷兵の頭割りふぐり斬るてふアメリカ兵は 

喰むものにはた著るものに事削げばいよいよふとる大和魂

かゝる時皇国の為に何もせであらば子まごの恥ぢて泣くらむ


 

宮林得三郎「零点以上に評価される気遣ひのない私」

 宮林得三郎『戦時下の世相に対して私は斯く叫びたい』は昭和13年11月、京城での刊行の小冊子。非売品。表紙に「自由主義個人主義思想を排撃して国家全体主義思想高潮運動を提唱す」ともあるので、著者の主張が分かる。
 手元のものには「この小冊を江湖に贈る私の心」といふ紙片が入ってゐる。「ヅブ素人の心持ち」「なけなしのサラリを割いたこの上梓」ではあるが、「ひた向く愛国への発願」で行動したのだといふ。
 前書だけでも読んでほしいとあるのでその前がきを読むと、ここでも「零点以上に評価される気遣ひのない私」と自分を卑下する。その宮林が主張するのは自由主義個人主義の排撃。

 たゞ正心正銘、自由主義陣的個人主義殲滅陣への斬り込みである。この「みち」こそ総ゆる宗教、総ゆる法律、総ゆる道徳をも超越した絶対境「すめらぎの道」である

 謙遜と攻撃が同居し、不思議な感じがする。商界地獄(仮称)に仲間入りした、商売人の醜行があばかれた、ともあり、朝鮮でなにか商売上で一時苦労し、そこから一転して全体主義に目覚めたやうだ。
 ヒットラームッソリーニにも共感し「この運動をより強力ならしめたい」「更に有効適切な企画の連続的発表」と謳ふ。長期戦の覚悟も示してゐる。

清水八十治「こんな旨い物ばかり食べていたら、人間は堕落してしまうぞ」

 『八十路 人々の縁に支えられて』は清水八十治自分史編纂委員会編、平成14年4月刊。清水八十治は自分の名前から、八十二歳まで生きることを目標にしてきた。念願かなって改めて生涯を振り返りまとめたのがこの書。
 世間的には、吉田茂の秘書として長野から衆議院議員選挙に出馬したり、電通の出身者らと広告会社、明治通信社を興したりといった活躍で名を残してゐる。
 ところがその前の戦前や終戦直後の経歴にも興味深いことがある。上京して早稲田大学専門学校商科に入学した清水。田中穂積総長から紹介されたアルバイトが早稲田大学付属図書館での貸し出し係り。仕事は気に入り、生活の基盤もでき、先生と懇意になり友人もできた。
 ただ不満だったのが、仕事中の服装問題。

“(略)図書館で本を貸し出す係りの俺としては、神田に行って、背広だ、ワイシャツだ、ネクタイだといって買わなければならない訳で、その分だけ割り損だよなあ…”などと、貧乏学生らしい浅ましいことを、腹の中で密かに考えていたことも事実であった。

 早大図書館では貸し出し係りでもきちんとした服装でなければならず、生活は苦しかったといふ。
 そのためほかの学生のやうに喫茶店や映画館などに入ることもできなかった。そんな中、友人のボース君といふのが出てくる。これは中村屋のボースの息子、防須正秀のことだらう。ボース君を訪ねたときに、奮発して中村屋でカレーを食べることにした。

“えらい高い買い物だなあ…”と感じた。それでも、これもひとつの経験だから、と食べてみたのだが、何とこんなに旨い物は初めて食べた。“こんな旨い物ばかり食べていたら、人間は堕落してしまうぞ…”と思う位旨く、あの時の感激は今もって忘れられないものである。

 「恋と革命の味」のキャッチフレーズもいいけど、人間を堕落させる味といふのもよささう。
 戦後は大麻唯男らとのつながりで、新会社の新世紀社から新雑誌『読物クラブ』を発行。「ちょっとしたベストセラー」になる。続いて岡村二一らから声がかかり、新雑誌『ロマンス』に関はる。清水は関連のロマンス商事の社長となり、物品を販売した。その中に「ナナホスミン」といふ滋養強壮剤があり、原節子が愛用した。熊谷久虎夫人が代はりに買ひにきたのだといふ。『ロマンス』のポスター前で撮った、社員の写真も載ってゐる。